平安時代末〜鎌倉時代にかけて、法然が提唱した「専修念仏」は世間にも仏教界にも大きなインパクトを与えました。
専修念仏とは、ひたすら「南無阿弥陀仏」を唱えよという教えです。『仏説無量寿経』という経典にもとづき、「南無阿弥陀仏を唱えれば、かならず阿弥陀如来が極楽往生させてくれる」と説いたのです。
つまり、法然の言う通りであるならば、きびしい修行をせずとも、戒律を守らなくとも、人は極楽往生できるということになります。
これは戒律を重視する旧来の仏教の立場からすればとんでもないことでした。
そこで、戒律は重んじなきゃだめでしょ、という僧が多く法然に反論を始めたのです。つまり法然の登場によって旧仏教(南都六宗、天台宗、真言宗)も活性化して、戒律復興運動が興ったわけです。
戒律というのはけっこう複雑で、戒律を説く経典は主に4つあります(『四分律』『十誦律』『五分律』『摩訶僧祇律』)。
教科書的には「奈良時代に鑑真が日本に戒律を伝えた」という以上のことは書かれていないと思いますが、鑑真が伝えた戒律は4つの戒律のうち『四分律(しぶんりつ)』で、この『四分律』を重んじる立場が南都六宗の律宗です。
しかし真言宗を開いた空海は、『四分律』よりも『十誦律(じゅうじゅりつ)』を重んじました。
また、天台宗を開いた最澄は独自の戒律思想をもっていて、延暦寺ではその独自の戒律による授戒(戒律を僧に授けること)が行われていました。
叡尊はもともと真言密教を修めた学僧で、つまり『十誦律』を中心に戒律を研究した人です。
なので、叡尊が開いた真言律宗も『十誦律』を中心に据えていて、『四分律』が中心である鑑真の律宗とは別物なのです。「真言宗+律宗」ではなく、「真言宗の立場での律宗」と理解したほうがいいでしょう。
叡尊が活躍した時期、すでに律宗は衰退していたので、叡尊は律宗そのものではなく、鑑真が興した律宗の、戒律を重んじる精神をこそ復興したのです。
叡尊の友人である覚盛(かくじょう)は『四分律』を重視して戒律復興に取り組みました。そして唐招提寺において律宗そのものを復興させています。