怒りには原因があって、その原因を滅しなければ消えないということです。
そして、その原因は、執着です。
怒りが生じた時は、自分は何に執着しているのかに気づく必要があります。
それは、欲であり、そしてまた自我、自分への執着でもあります。
でも、その執着が分かっても、その執着を捨てる、すなわち執着を滅することが難しい、それが現実なのです。
だから悟りは難しいということです。
仏教では、執着の原因が欲(渇愛)であり、その欲の原因は無明だとされます。
無明とは、真理を知らないでいる愚か者の状態ということです。
修行によって真理を知れば、欲が生じず、よって執着も生じない、それが悟りということです。
しかし、その真理を知るというのは、頭で理解しただけでは駄目だということです。
戒律を守って瞑想修行に専念することで真理を知ることが出来るとされるのです。
だから、その実現はすぐには無理なので、それまでは、耐える、忍耐ということが必要になるのです。
忍耐が最上の修行であるとか、最後は、自分の拳を強く握り締めて耐えよ、と説かれている経典もあります。
それから、常に自分の心を自分で観察していなさいとも説かれます。
怒りが起きたら、それに素早く自分で気づく、ということで怒りがストップする、ということです。
それは、怒りに我を忘れる、という状態が無くなるということでもありますね。
なお、真理を知るということは、それを言葉で簡単に説明するのは難しいのですが、自分が執着していた対象が、執着の価値が無いものであることが真に分かる、ということだと言えるでしょう。
それは、諸行無常、諸法無我、一切皆苦、とも言われます。
それを頭で理解するのは容易ですが、しかし、それを実践修行によって真に知るのは難しい、ということですね。