文化は「社会としての自由」を生みつつ、「個人としての制約」も同時に作るものだと思います。
文化って人間の行動や意味づけの共通認識で、言語、礼儀、価値観、芸術、宗教など・・・共通性があるからこそ、見知らぬ人とも意思疎通でき、協力して社会を成り立たせることができるわけで、そういう意味では、文化は社会的な自由(安心してやり取りできる条件)を享受出来るわけで、もし文化がまったく共有されていなければ、日常のコミュニケーションすら成立しないと思います。
ただ、その同じ文化は「こう振る舞うべき」という期待や規範も伴い、社会人として互いに気持ち良いように、互いに気遣い、思い遣りとしての、服装、言葉遣い、役割意識などに見られるように、個人の振る舞いはある程度方向づけられることになるわけです。
ここでは文化は個人にとっての制約(不自由)として働くことに結果としてなるわけで、逸脱すれば違和感が生じるのでしょうね。
ちょっと学術的になりますが、エミール・デュルケームが「社会的事実」という形で、個人の外側にあって行動を拘束する力を指摘しましたし、ミシェル・フーコーは、規範や知の体系が人を形づくる側面を強調しています。文化は自由のためにあるのですが、制約を同時にもたらすこともあるわけです。
私は思うんです。個人は完全に受け身ではなく、人は文化に従うだけでなく、解釈し、ずらし、時には変えていき、新しい言葉や価値観が生まれるわけで、文化は固定された檻というより、人々が参加しながら更新していく・・・自由を目指す枠組みだと思います。