そもそも、日本に伝わって来た仏教なるものが、釈迦すなわち仏陀が語ったものではありません。
釈迦は無我を説き、常一主宰な我を否定した上で(肉体があればこそ意識が生じるのであり、死後肉体が滅んでも霊魂は不滅であるという考えを否定した上で)、業(カルマ)に基づき輪廻転生すると説きました。
その理論を前提として釈迦が目指したものは「輪廻からの解脱を達成し、死後に天界を含めて一切皆苦のこの世界で二度と生まれ変わらないこと」だったというのが宗教学上の通説です。
釈迦は自らブッダ(目覚めた者)を名乗り、主に北インドを中心として教化活動を行いました。
釈迦の説く法は自ら悟り得たもので「私に師はいない」と釈迦は称しました(無師独悟、縁覚)。
現在ではブッダは釈迦の固有名詞のように捉えられていますが、本来の意味合いとしては真理体得者(悟りを得た者)や聖仙の称号の一つでありジャイナ教のマハーヴィーラも「ブッダ」と呼ばれていました。
教団内紛で広く知られるものは デーヴァダッタ率いる分派と教団主流派との対立です。
デーヴァダッタは釈迦の従兄弟とされています。
仏教主流派の伝統説話では、デーヴァダッタは釈迦の定めた戒律(具足戒)は手ぬるいと批判し、より厳格な戒律の制定を提案したものの釈迦が受け入れなかったため対立が生じたといわれています。
釈迦の滅後、その遺骸は釈迦の弟子らとマッラ族の人々の手によって火葬されました。
当時、釈迦に帰依していた七大国の王たちは、釈迦の遺骨(仏舎利)を得ようとマッラ族に遺骨の分与を乞いましたが、マッラ族の人々はこれを独り占めしようとし諸国の王らの要求を拒否しました。
そのため七大国の王たちは軍勢をクシナガラに差し向け、クシナガラは大軍に包囲されましたが、ドーナ(dona、香姓。独楼那、徒盧那とも)というバラモンの調停を得て仏舎利は八分され、遅れて来たマウリヤ族の代表は灰を得て灰塔を建てたといいます。
その八大国とは、
1.クシナガラのマッラ族
2.マガダ国のアジャタシャトゥル王
3.ベーシャーリーのリッチャビ族
4.カピラヴァストゥのシャーキャ族
5.アッラカッパのプリ族
6.ラーマ村のコーリャ族
7.ヴェータデーバのバラモン
8.バーヴァーのマッラ族
です。
ガンダーラ仏の出現までは、ムハンマドの表象のように開祖である釈迦の図像化が徹底的に忌避され、仏舎利を祀るストゥーパが信仰の高いウェイトを占めていました。
釈迦の図像化が忌避された理由については「私の死後は私の説いた法(ダルマ)を拠り所にすべきであって、私自身を信仰の対象にしてはならない」という釈迦の遺言に基づいていたなど諸説あります。
ストゥーパの意味合いについてインド美術史家の宮治昭氏は「もともと釈尊(釈迦)の墳墓ではあったが単に聖者の墓というのではなく、輪廻の世界を脱して完全なる消滅、 ”般涅槃”を達成し、いわば永遠の静寂の世界に到達した仏陀それ自身の象徴と見なされた」と説明されています。
残された弟子たちは釈迦の遺した教えと戒律に従って跡を歩もうとし、何度か結集を行い釈迦の教法と律とを口伝で伝世させました。
それらが文字化されたものが『パーリ仏典』や『阿含経典』群であるとされています。