まずイザヤ5章2・4・7節の「酸いぶどう」は文脈上、単なる果実の不良ではなく、神が期待した「公正・正義」に対して民が返した「流血・泣き叫び」を象徴する比喩的表現であり、これは旧約聖書が「読む」というより「朗読」として聞いて受け取っていたことから、ヘブライ語の語呂合わせがその対比を強めていることに注目しないと、特定の日本語翻訳聖書に閉じこもっていては、わからないことです
イザヤ5章1–6節は「ぶどう畑」のたとえ話で、畑の手入れ(神の恵み)と期待、つまり甘いぶどうは良い実として描かれる。収穫で出たのが「酸いぶどう」であることは、期待の不履行であり、神の望んだ実(公正・正義)が現れず、代わりに望ましくない結果が生じたことを示しているわけです。所有者(神)の嘆きから、裁きの宣告へと進むということです。
2節・4節と7節の関係ですが、2節・4節は具体的な出来事として、ぶどうが酸っぱくなったことに対して、なぜそうなったかを述べ、7節でその「解き明かし」を行うような関係です。7節は「主は公正(mishpat)を待ち望まれ、たのに流血(mispah)、正義(tsedaqah)を待ち望まれたのに叫喚(tse‘aqah)」と語り、「期待されたもの」と「現実」との対比が示されているわけです。したがって2・4節の「酸いぶどう」は、7節で示される流血・泣き叫びという社会的・道徳的結果を指す比喩と読むのが文脈的に自然ですね。
ヘブライ語の語呂合わせと解釈の根拠として、語音的類似(mishpat/mispah、tsedaqah/tse‘aqah)があり、預言者がアイロニー的な対比を用いているわけで、今から考えると単なる言葉遊びのような感じもするかもしれませんが、旧約聖書において、聞き手に強い印象を与える修辞技法であり、比喩として、酸いぶどうが悪政・暴力であることを具体的な社会問題である流血や叫喚へ結びつけているわけです。
これらのことより、論理的には、ぶどう畑のたとえは神の期待を示し、酸いぶどうの出現は期待の不履行の結果を示すわけで、7節がその具体的内容として、公正が流血に、そして正義が叫喚へということをを明示しているという三段構成で整合するわけです。
これらのことより、酸いぶどうが流血・泣き叫びという読みは、文脈と語彙上の対応から妥当だと思います。